(若き日の足跡)


山のふところに抱かれて
心に咲いた花
アルプスの日記
ミルク色の下山路




山のふところに抱かれて           昭和51年山と渓谷 「私の山歴書16」から
ぼくは蓬峠への最後の登りを1年生に敗けてはならぬと懸命に駆け登っていた。
それは中学3年生の初夏のことだった。
動物や植物の好きだったぼくは生物部に入った。
この蓬峠には自然観察のためにやってきたのだった。
都会の中に育ったぼくには、この自然の不思議な動きがたまらなくうれしかった。
夏にも雪がある、美しい滝と水の流れ、雲と触れあったときの感激、深い森・・・。
この自然観察行から帰ると無性に山が恋しかった。行きたくてしかたなかった。

父や兄はよく山に行っていた。正月だっていなかった。
ぼくは山の良さについては理解できなかった。
二人が山から帰ってきてもおみやげはなかった。
でもぼくは釣りに行って魚をもってきて、晩の食卓をにぎわすことができた。
けれど、理解できなかったぼくが山を好きになってしまった。
何の報酬もない、無償な登山だったが、心の栄養になるのがなんとなく感じられるのだった。

中学3年の正月に金峰山へ登った。
初めての冬山でとても厳しい山行だった。
しかし、充実感はあった。
そして中学を卒業、ぼくは社会人となった。
会社の人たちと山に行くようになり、夏の初めに丹沢の沢登りをした。
ぼくの前に岩の世界が広がった。
初めての山行で見たあの一ノ倉沢の半円状の岩峰群が離れなくなったのだ。

18才の春、いつも行動を共にしていた会社の友人が社会人の山岳会に入ってしまい、ぼくも追われるように山岳会に入った。
常にパートナーが欲しかったのだ。
しかし、その山岳会は厳しかった。
体力をつけるための訓練山行ばかりだった。
40名もいた新人が新人歓迎山行で半分に減った。
ぼくは何とか耐えられたが、耐えられない人がかわいそうだった。
ばて、足がつり、うずくまる新人に先輩の平手がほおに飛び、山靴で蹴り、さらに荷を増やしたのだった。
ばてていたっていずれ強くなるだろうに、強い者を中心に考えてしまっている先輩のシゴキにぼくは抵抗した。
強くなって先輩をだし抜いてやる、と意気込んだのだ。
だが木の根のゴツゴツする急な尾根を駆け下っている時、滝のような汗が目に入り込み見えなくなって、ぼくは木の根につまずき大転倒して足首を捻挫してしまた。
けれど、ぼくは痛さをこらえて走りぬいた。
しかし、足は悪化し、行きたかった夏山合宿も腫れている足を見て先輩はやめろと言った。
秋になってもよくならなかった。山に行けないで山岳会にいるのは辛い、ぼくは山岳会を去った。

完全に良くなるまで、1年半の年月を費やした。
19才の時現在の山岳会に入会した。
前のクラブに比較し、あたたかい人間に囲まれていた。
山へ登るだけの会ではなかったのだ。
パートナーに恵まれ毎週のように岩を求めて、ゲレンデへ、穂高へ、谷川岳へと歩いた。
ぼくの目標は衝立正面壁だった。

会へ入って最初の冬山合宿は北岳だった。
兄は山岳同志会にいて甲斐駒へ入った。
偶然にも同じ汽車で離京、甲府で別れた。
ところがこれが兄の最後の姿になってしまった。
赤石沢奥壁中央壁の冬期初登をねらった兄は、雪塊に叩き落とされ2人の仲間と共に死んでしまった。
兄と共に帰京するとすぐ両親から、冬山と岩登りは絶対やめろといわれた。
そんなこといわれてもぼくにはできるはずがなかった。
兄の分まで登ってあげる・・・とダビの行われた赤石沢大滝の下で吹雪く奥壁を仰ぎながら誓ったんだ。
ぼくは自分なりに心を引き締めて山に向かった。
雪崩については人一倍注意をはらった。その年の冬の最後の登攀を滝沢リッジで飾った。
ぼくに勇気と自信を取り戻してくれた山行だった。
やがて入会して1年が去った。

5月、ぼくは衝立正面壁の空間に酔っていた。
当時、早いパーティで1日かかって抜けていたが、ぼくらはその日のうちにコップ正面壁も登って降りてきた。
桜の花の満開の麓で先輩たちが差し出してくれた冷酒がとてもうまかった。
育ててくれた先輩達はぼくの肩を叩き、「良かったなっ」とまるでぼくがひとりで登ってきたみたいに言ってくれるのだった。
大きな器につがれた酒の中にぼくの涙がこぼれ落ちた。
そう、5ヶ月前、ダビの煙の昇るのをじっと涙をこらえて見つめていたぼくの後ろから先輩は「皆の前で涙なんか流すんじゃないぞ、泣くなら誰もいない所へ行って泣くんだ!」と言った。
途端ぼくの目からは水門を開けられたように涙が溢れてしまった。
その日もそんな気持ちだった。
ぼくの会には大人になっても胸の中に飛び込んでいって泣けるような先輩がいるんだ。
目標が終わった。
その陰に先輩たちの力強い励ましがあったことを忘れはしない。

次の目標はヨーロッパアルプスの大岸壁に変わった。
夏から秋へ、冬から春へと登攀を重ねて行く中で、ぼくは再び大きな打撃を受けたのだった。
大きな山行の多くを共にした小河栄君が一ノ倉沢で遭難死してしまったのだ。
アルプス行も約束したのに彼はぼくを残して先に逝ってしまった。
そしてさらに、彼の死から2週間してお袋が病死してしまった。
ぼくの生活が変わった。
家事が入り込み、ぼくの労働には果てがないような日々が続いた。
疲れ果ててしまったぼくは、こんな苦しみから遠ざかりたくて、死を覚悟の単独登攀を試みようと決意した。
だがぼくには実行できるだけの勇気がなかった。
そんな暗く沈んでいるぼくを励まし力づけてくれたのは誰だったのだろう。
それは山の仲間と、そして山と、そして死んだ小河君や兄やお袋だった。

苦しく、辛い日々が続いた。だがぼくは、いつも大きな夢を追い続けた。
ぼくの血潮は力強く生きていた。
どんな障害があっても乗り越えようとする意欲を持ち続けた。
山の仲間はぼくに生きる事を素晴らしさを教えてくれたのだった。

ヨーロッパーアルプスへ行く事も実現できた。
ブレチエール西壁の冬期第2登、グランドジョラスやマッターホルンの北壁も登ることができた。
しかし、ちょっとした不注意で凍傷にかかり、ぼくの足指は切断された。
もう冬の登攀はできない・・・ぼくは病室で悲しみの声をあげた。
「何を言っているんだ、指の1本や2本、義足を付けてヒマラヤに行っている人だっているんだぞ!」
見舞いにきた山岳同志会の小西政継さんは言った。
兄が死んだあと小西さんは兄の替わりとなって、いつもぼくを力づけてくれるのだった。

退院するとトレーニングが始まった。
柔らかい皮膚はすぐ破れて血が出た。自分との闘いであった。
そして1年、小河君が死んだ冬の烏帽子奥壁を登れるようになった。

ヨーロッパから帰ってきてから登山用具メーカーに勤務し、登山用具の開発など、今までの経験をいかし取り組んだ。
28才の時山仲間と結婚した。
ぼくの山岳会の女性のあり方の中で、いくら育てても結婚すると会を去って行くから女性会員の指導には力を入れないという事を、文部省の登山研修会や岳連などの集まりの中でよく聞いた。
ぼくは反対の意見だ。世の中、男と女しかいない。
女性はいずれ家庭に入るだろう。
男性は結婚しても行けるが女性は行けなくなる方が多い。
だから結婚する前に出来るだけ楽しんでもらいたいわけだ。
青春のひとつの思いでになったら・・・子供が育った時に自分を振り返って、ああ、あんな事があったんだなぁと懐かしく思う。
ぼくはそういうゆとりをいつも持っていたい。
そして、ぼくの相手は結婚してからも山にスキーにと自由に天地をはばたいていた。

もうじき32才になろうとしている。
世界アルピニズム連合の会長は56才でグランドジョラス北壁を登っている。
60才でノワール・ド・プトレイ西壁の6級ルートを登っている。
ぼくもまだ30年は大きな山行ができるように心がけたい。
山は一生かけて登りたい。
小さい時病弱だったぼくも山を始めてから丈夫になったし、動物や植物など、多くの自然に語りかけられるようにもなった。
語りかけられる時ぼくの登山は息をしている。
今一番の大きな夢は針葉樹林のある高原に山荘を建てて、自然を愛する人たちと一緒に自然と語りあいたいということだ。
                  (日本アルパインガイド協会会員、東京北稜山岳会代表)



山に登るきっかけとなった蓬峠自然観察、引率の先生のお一人、池場先生と奥様。
平成13年夏、野口ペンションにて。



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心に咲いた花                           昭和44年 山と渓谷から 
ある1月下旬のこと、僕は穂高屏風岩東稜の垂直の中のやっと座れる狭いバンドで、空間に足を投げ出して風雪の音を聞き入っていた。
隣には誰もいない。
でも単独登攀ではなかった。
友は40m上の小さなテラスに腰を下ろし、風雪から身を守るツェルトも無く、でも弱音も吐かず元気に歌っていた。

翌日の夕方に、横尾の冬季小屋に帰った僕たちはストーブにあたっていたが、静けさを破って友がポツリと話始めた。
「俺、ビバークしてて野口ちゃんのことずっと思っていたんだ。だってこの間兄さんが山で死んだばかりなのに、野口ちゃんにもしもの事があったら、お袋さんになんていって良いかわからないもの。でももう安心だ・・・」

友は小さなテラスで風雪を全身に浴びて煙草も吸えずに、ただ夜明けを待ち望んでいただけでなく、自分より好条件の僕を思い続けていたのだった。
そうだ! 衝立岩左フェースの時は墜落し傷ついた僕を励まし、かばって登ってくれたし、穂高で、剣で、谷川で、友との山行はすべて充実したものばかりだった。

何故なら、友が僕に教えてくれたものは、岩登り技術でも、山の美しさでもなく、それは、何より美しい情愛だったからだ。
自分が辛く、苦しい時は友も同等に辛く苦しい立場にいるだろうから、自分よりも友への情愛を重んじる。
自分を忘れ、友を愛し、心の通い合う友と一緒に登る時、コースの難易にかかわらず最高に楽しい悦びの休日となるだろう。
充実した休日の後に来るものは、明るい社会生活と、明るい未来と・・・そして平和。
それなのに穂高から帰って半年後、烏帽子奥壁は心の優しい友を無残にも叩き落としたのだった。

しかし、最愛の友を失った僕だったけれど、友と僕との間に咲いた純粋で美しい情愛は、僕の生命の続く限り枯れる事なく咲き続けることだろう。
                                    (東京北稜山岳会会員)



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アルプスの日記                  野口久義著 坊平ペンション便りより抜粋
悲しい思いでいっぱいだった21才から少しは大人になった22才の後半、ぼくは冬のアルプスの岸壁登攀を目標に渡欧した。
10才の時、いつになってもいい、いつか行くんだと小さな胸の中に育み続けたアルプスへの憧れ、それが、さまざまな障害を乗り越えて実現できたのだ。
勤務先の会社も理解があって、7ヶ月もの休職を許してくれた。

1968年2月、雪の積もる横浜の岸壁をソ連の貨客船バイカル号は静かに離れていった。
当時、ヨーロッパへ最も安い旅費で行けるのが、船、飛行機、汽車を乗り継ぐこのソ連経由のものだった。
食堂車もない列車に2日半も乗っているのは閉口したが、1週間後にはめざす山の麓、シャモニにやってきていた。
ぼくもパートナーの南川和勇さんも、英語もフランス語も、ドイツ語も、まるでわからない。
日本語と辞書とジェスチャーによって、どうやら安い宿が見つかった。
シャモニ針峰群や、モンブランの良く見える、ブレバン行きのケーブル駅に近いペンションだった。
寝ながらに素晴らしい景観を望む事ができて、二人ともただ感激、ため息ばかりもらしていた。

ここから見えないが、めざすアルプスの三大北壁のひとつ、グランド・ジョラスはあの針峰群の後ろに聳えているんだ、と思うと、落ち着かなかった。

トレーニングや装備などを揃えるのに何日か費やし、いざアタックとなる頃、今まで安定していた天候が崩れ始めてきた。
それでも、少ない好天をつかんでアタックを繰り返したものの、風雪にたたかれ、雪や氷にすっか閉ざされた岸壁に追い返され、隠れたクレバスに落ち込み、アルプスの冬の寒気には容赦なく体温を奪われた。
もう、投げ捨てて暖かな町でのんびりしていたかった。
でも、町に下りてしばらくすると、再び山へ向かおうとする気力がわいてくるのだった。

そんな時、同じ船で日本を離れ、ぼくたちとはインスブルックで別れてからヨーロッパのスキー場めぐりをしていた斉藤次郎さんと再開し、共にバレ・ブランシュをスキーで滑降する事になった。
ぼくたちの目的はスキーでなく、途中にデポしてある荷物を回収することだった。
高度差2800m、16キロの氷河は、ボーゲンと直滑降しかできないぼくには大変厳しいものだった。

その日からヨーロッパは大きな高気圧に覆われ始めた。
この冬、最後のチャンスだ。
目標を針峰群のブレチエール西壁に変更し、翌日の午後、ぼくたちは800mの西壁と向かい合っていた。

最後の夜を取付き点で過ごした後、ぼくたち2人はザイルを結び合って登り始めた。
間もなく、アルプスの岩場には2ヶ所しかない極端に難しい≠ニいわれる部分に遮られた。
でも、落ち着いて、少しづつその難所を足の下にしていった。
こうして、一日わずか200mしか登れずに4日間が過ぎ、5日目の午後、ようやく山頂にたどり着くことができた。
そして氷河へと下り、5泊目の夜を過ごしたあとシャモニへと下っていくと、上空で爆音が轟いた。
振り返ると、ぼくたちの登っていたブレチエール針峰にヘリコプターが旋廻しているではないか。
ぼくたちのためなのか?
いや、ペンションのオーナーには今日が最終日だといってあり、それを過ぎても戻ってこなかったら救助隊に連絡してほしい、と伝えてあったのだから・・・。
しかし、ヘリコプターは氷河にいるぼくたちを見つけるとぐんぐん高度下げ着陸する。
乗員の中からガイドらしい人が走り寄り、「ブレチエールに登ったのか?」というような事を言った。
「そうだ」と答えると、彼は花崗岩のザラザラした岩肌と4日間も接してきたぼくたちの痛んだ手をギュッとにぎりしめ、無言のまま笑っていた。
これからシャモニへ下ると伝えると、ヘリコプターはシャモニの谷へ吸い込まれるように消えていった。

ペンションのオーナーの話では、自分の宿のお客にもしものことがあったらいけない、明日から天気が崩れるのでその前に確認しておきたかった、ということだった。
それに、ガストンレビュファの著作の翻訳で知られる早稲田大学の近藤先生や冬のアルプスをめざして同じ船で出発した芳野満彦さん、手島正俊君、福田三男君もドロミテから戻ってきていて、みんなで相談した結果、ヘリコプターを飛ばしたというものだった。
ぼくたちは感謝の気持ちでいっぱいだった。

その夜、ガストン・レビュファの山荘で、近藤先生の奥さんの手料理で、楽しいパーティが開かれた。
6日間、流動食だけだったぼくたちの前に美味しい料理の数々が並んだ。
そこへフランス国立登山学校の教官アンドレ・コンタミヌから、ぼくたちの西壁が冬期第2登だ、という電話が入った。
ぼくは食べ過ぎた胃を押さえながら山荘のテラスに出てみた。
赤く染まったシャモニ針峰群やモンブランが、今までのどの時よりも美しく望まれた。
奥からは皆の楽しげな笑い声が聞こえてくる。
幸福なひとときであった。

近藤等 著  「アルプスの空の下で」  から
夕食をすまして、一同はテラスからシャモニ針峰群を見上げた。
空にはアルプスの美しい星がきらめいていた。
シャモニ針峰群の中央にその三角形のどっしりしたシルエットを見せているブレチエールの西壁は、わたしには黒い大きな岩塊にしか見えなかったが、5日間の苦闘をすまして、冬期第二登に成功した両君の目には、登攀ルートがはっきりと見える、光みなぎる大岸壁として映じたにちがいない。
ガストン・レビュファの言うように
「山は目を開いて見るよりも、まず心の扉を開いて接するべきもの」  なのだから。


ぼくたち2人と、福田君と手島君の4人は、冬の山行が終わったら夏のシーズンまで一緒にアルバイトをしようと、バイカル号の中で決めていた。
それが芳野満彦さんの口からさまざまな人に伝えられ、何人もの人たちのおかげで働く所が見つかった。
それも、ぼくには嬉しい牧場だった。
幼い頃の夢がこうしてスイスで実現するとは・・・それに住む所がジュネーブの郊外、フランス領のサレーブ山の牧場主の別荘で、それがまた山小屋風で実によかった。
針葉樹の森があって、果てしなく放牧地が広がり、小さな流れも、腰を下ろすのに都合のいい柵もあった。
遠くにはジョラスやアルプスの山並みが望める所だった。

・・・・・それから67日間、ぼくたちはここで働き、遊び、山へも登り、苦楽を共にした。・・・・

                       ーーーーーーー    中略    −−−−−−−−−


マッターホルン



やがて夏の登山シーズンに入った。
冬の登れなかったグランド・ジョラスの北壁や、モンブランに登り、その後マッターホルンに登るため、麓のツェルマットに行った。
少年の頃の夢が実現しただけでなく、山頂へ、それも雪と氷に閉ざされた北壁から登るのだ。

天候には恵まれずに、でも好天をつかんでアタックした。
ザイルパーティは田部井政伸さん、吉村弘治さん、須田義信さん、そしてぼくの4人だ。
午前2時、ぼくがトップで登り始める。
昨夜は不安が次から次へと浮かんで眠れなかったが、今はそれもなく岩と氷の斜面を登り続けるのだった。
やがて、小さな岩棚で夜になった。
翌日から天候が急変し風雪になった。
8月だというのに真冬のようだ。
でもぼくたちは風雪に耐えてきた男ばかりだし、誰も下降しようとは思わなかった。
荒れる塵雪崩と風雪の中で、雪まみれになって登り続ける。
そして、狭い岩棚で迎える夜は2日目になった。
次の日も風雪のまま3回目の夜になってしまった。
凍傷になり始めた仲間が苦痛を訴える中で、ぼくの膝の上のコンロが燃えて、熱い飲み物が次々と出来あがり、みんなの冷えた体を暖めていった。

夜が明けて、荒れ狂った嵐が強い風だけを残して去っていった。
一番元気なぼくがトップで登り、やがてあれほどまで憧れていたマッターホルンの山頂の十字架の前で、ぼくたち4人は冷たい手と手を握り合っていた。
そしてすぐ烈風吹きすさぶ山頂をあとに下り始めたものの思わぬ雪にてこずり、途中のソルベイ避難小屋で泊まらなければならなかった。
ところが、そこでぼくは4日ぶりに靴を脱いでみてゾッとしてしまった。
足が青白く凍り付いてしまっていたのだ。
田部井さんとぼくのが最もひどかった。

翌日ツェルマットへ一日がかりで下っていく途中、ヘルンリ小屋の前には仲間の井口孝さんが来ていて、もうすでに街ではぼくたちが北壁を登ったというニュースが流れていると知らせてくれた。
それに、凍傷のひどい2人分のザックを背負ってくれたのだ。
下る途中、ツェルマットで友達になったイギリスのアルピニストが、ぼくたちを確認すると走りよって祝福してくれ、手や足は大丈夫かと心配してくれるのだった。
美しい山仲間の友情、それは海を越えても変わらない。
傷ついたぼくたちに涙を流し、しっかりと抱きしめてくれたイギリスの2人のアルピニストにそれを感じるのだった。
北壁に登るためにシュワルツゼーにテントを張っていた大阪の登攀クラブの人達が、ぼくたちに気づいて走ってくる。
「その程度だったら大丈夫、すぐ治りますよ」   と背をたたきながら励ましてくれた。
そして、ケーブルカーが中間駅に着くまで手を振り続けていた。
みんなの思いやりには頭の下がる思いだった。
それに、ケーブルカーも最終はとっくに出てしまっている時刻なのに、ぼくたちの為に特別に動いている。
おまけに、山麓駅から街まで馬車の用意がしてあるという。
特別の時間にしかも無料で動かしてくれるスイスの人達にもう感謝の気持ちでいっぱいだった。
「観光の国だから、というより人間として当然のことをやっているのよ」
と入院先の看護婦さんから聞いた時、ぼくは深く考えさせられた。

田部井さんとぼくは入院してから、血液促進剤の注射の連続で、それがまた痛い注射だった。
うなっているところへ、ぼくたちが泊まっていたホテル・バーンホーフのパウラ・ビナーさんが見舞いに来てくれた。
「2日目に天気が崩れたのに、なぜ降りなかった?」
と言いながら、ぼくたちの厚く巻かれた包帯に目をやるビナーさんの目には涙が光っていた。

入院している間、その時アルプスに来ていた日本のアルピニストが次から次へと見舞いに来てくれた。
グリンデルワルトで友達になったロビー姉弟からも手紙が届いた。
商用で見えた日本の時計店の人も、話を聞いて来てくれた。
ジュネーブの共同通信社の下田さんにはドクターと話をしてもらい、凍傷の細かい様子を聞いてもらった。
それによれば、2人共たいしたことはないという事だったが・・・

雄々しくそびえるマッターホルン。その北壁でぼくはかつてない厳しさを味わった。
しかしそれにも増して心にしみたのは、国境を越えた人との結びつき、友情だった。
ベッドに横たわっていると、幾つもの思いがよみがえり、胸が熱くなってくるのだった。



マッターホルン北壁 凍傷で腫れた足



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ミルク色の下山路              春山の恐怖  昭和48年山と渓谷 読者応募
通い慣れたはずの尾根であるはずであったが、3月の山とは思えないほど気違いのように荒れ放題の今日の山は、何もかも目新しく、巨大な雪庇や胸から首までも没するドカ雪や、どこまでも続くミルク色の世界は、生への可能性を奪おうとしてぼくと対抗し続ける。
展望が良ければどんなラッセルも苦にならないのに、今自分達が下りているのがどこかもはっきりわからないだけでなく、自分を疑ってさえいるのだ。

肩ノ小屋を出発したのが午前7時だったから4時間が去った頃だった。
トップを行っていたぼくは恐ろしく急激に落ち込む雪稜に不安を感じた。
その不安はルートそのものではなくもう終極のことばかりであった。
もう既に予定より1日延長している。
家族も仲間も会社の人達も・・・・皆心配しているだろうと思うと絶対下りたかった。
だがこのまま下れば二度と人間の住んでいる世界へは帰れないのだと過去の経験が教えてくれた。
ぼくは、ぼくのパートナーと友人2人に小屋に戻って晴天を待って下ることを主張した。
みんなも同意し、既に消えかかっていラッセルの跡をゆっくりと登り返したのであった。


         ・・・・・・・    ・・・・・     ・・・・・     ・・・・・     ・・・・・     ・・・・・


ぼくたち2人はおとといの朝、ブルーの空や氷雪の岸壁をバックに烏帽子奥壁の登攀を開始したのだが、天候変化の著しい上越の山は早くも夕刻には荒れ始めたのであった。
奥壁テラスでのビバーク、塵雪崩に埋められ眠ることもできないが、いつものように喜びを感じていられる。
仲間もいい奴だし、肉体的にも精神的にも不安はないからである。
ビバークサイトから3ピッチ目、夏であれば最後であるこのかぶり気味の岩は、ぼくのかけがえのないパートナーを死に追いやった場所であった。
4年前の夏、墜落を支えるはずのザイルはもろくも切断され、数百メートル落下した彼は、揺り動かそうが、怒鳴ろうが2度と話かけてくれなかった。
その翌年のヨーロッパ・アルプス行を約束していた彼、出発も決定したのに・・・もうぼくの前から離れて行ってしまった。。
アルプスの山に、ぼくは彼の写真をザックにしのばせて、ビバークの眠れない夜に頂上について語りかけ一緒に過ごしたのだった。
だが不幸にもぼくの足は凍傷になり、切断されてしまった。
ぎこちない最初の1年は、実に辛く苦しいものであった。
でも、ぼくにはひとつの目標があった。
冬の烏帽子奥壁であった。
死んだ彼を検死した、ときの石川先生はこう言っていた。
「奥壁をお前たち後輩が登って、小河登ったぞ! と言ってやるのだ」
夏は何度か登った。
けれど冬にどうしても登りたかったのだ。

彼の触れた最後の岩、トップのぼくは登攀の厳しさも忘れ、彼と過ごした日々を思い浮かべながら攀じていた。
間もなく夏の終了点に出たが終わったという気になれず、 登ったぞ=@とは言えなかった。
ミゾレ混じりの吹雪きで全身びっしょりどころか、高所靴の内に身体から伝わった水滴が入り込んで行った。
これから稜線を渡る烈風にあおられれば、再び凍傷になる可能性が多く暗い気持ちにならざるを得なかった。

国境稜線の越後側をからみながら肩へ向かうが、気が付くと雪庇の上だったりして楽観は許されなかったが、どうやら勘をたよりに肩ノ小屋に辿りついた。
今からなら暗くなるまでに下れるはずであるから、ぼくたちはすぐ出発した。
西黒尾根の分岐点が見つかるか否かを考えながら歩き出して間もなくだった。
先頭を行くパートナーは通り過ぎたが、ぼくは右側の盛りあがった雪のふくらみがどうも岩や風のいたずらによるものではないと思い、立ち止まってピッケルで雪をどかしてみた。
やはりそうであった。
もう温かみのない人間だったのである。
名も確認できず、ただ握りしめていたストックを立てて下山の途についた。
だが、視界の乏しい吹雪きの夕暮れがぼくたちを追い返そうとし、ぼくたちは諦め明日を待つことにして引き返すことになった。
屍はもとの雪のふくらみとなりストックが主人の帰りを待ちわびるように揺れている。

小屋には後続の2人が到着したところだった。
彼らとはザイルを結んだこともある仲間で今宵は4人で過ごす事になった。
だが全身はびっしょり。
濡れた靴下を脱ぎ、もんだりこすったりするぼくの足。
寒さのために眠れない。
でも、ぼくたちは生きているのだ。
わずか離れた雪の中には、帰れない、人間の住む世界に帰ることのできない人間がいるのだ。
ぼくは明日をずっと考えている。
小屋の隙間から吹き込んでくる雪と風の音はぼくの心を暗くさせ、死ばかりが浮かび上がって来る。
時々メタでお湯を沸かすだけで長い長い夜であった。

夜明けは時計が教えてくれた。
しかし展望は無に等しかった。
心だけは明るくさせようと思うが、西黒尾根の下降路が不気味なままにめぐり、頭の中で回転する。
精神的なもののためにザイルを結び合った2つのパーティはゆっくりと下り始めた。
もう雪原にはストックだけがエビのシッポをつけて立っているだけであった。

西黒尾根・・・どこがどうだか皆目見当がつかない。
4人とも、夏冬合わせて何十回と通っている所なのだが、勘、ただそれだけだった。
しかし、しばらく下ったものの不安を感じ、登り返すことにし15分も登っただろうか、先頭が止まった。
みんな呼吸が荒かった。
吹雪きがそうさせているのだ。
「ここはきっと西黒尾根だよ、このまま下りて行けばなんとかなるよ」 というのが3人の意見だった。
ぼくも同じ意見だったが、ぼくは4人のうち最年長だったから下る前に安全≠考えていたのだ。
しかし、小屋にもどるか、このまま下るか、どちらが安全かは判断に苦しむ。
燃料も食料も乏しいのだから。
もう最年長もリーダーもない。
そこには4人の人間が生きるために力を合わせているのだった。

急な雪稜は違うので左の尾根らしくない斜面を下ってみた。
どうやらいいらしい。
3人を呼び、胸ときには首までのラッセルを続ける。
午後2時頃だったか雪庇の続く稜線に棒が突き出ていた。
掘ってみると、それはまぎれもない道標だった。
目を見合わせて喜ぶ4人は感激のあまり声も出なかった。

森林帯を下り始めてから右に寄り過ぎ西黒沢に出てしまったが、夕刻、登山センターの扉を押すことができた。
そして、センターの人たちが「よく下りてきたな、手や足はなんともないか」と言い、熱い飲み物を運んでくれるとき、ぼくの目には涙がたまり、肩の屍のことを話すのが辛かった。

山は美しい。
けれど厳しく悲しい。
靴下と足と凍りついたぼくの足は青黒くなっている。
ぼくはフレネイの敗退を思い浮かべて、ボナッティやマゾーはどんな悲しみに陥ったのだろうかと考えながら、お湯につけた爪のない短い指をじっと見つめていた。

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